Shoshi Shinsui




ラス・ビハリ・ボース著

革命のインド

日本のアジア主義に多大な影響を与えた 《中村屋のボース》

日本のアジア主義の視野を東アジアから広域アジアへと拡大させた中村屋のボースによる、インド解放闘争の状況研究。

長い革命の転換点、《塩の行進》のころ、完全独立のために諸勢力をナショナルな一つの力に結集すべき状況を詳論。

今なお先進権力国に引き継がれ、繰り返される、《文明化のための嚮導》という欺瞞・愚劣の方法的原型を、当事者の視点から暴く。
   


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著者 ラス・ビハリ・ボース (Rash Behari Bose)
書名 革命のインド
体裁・価格 A5判上製 304p 定価6050円(本体5500円+税10%)
刊行日 2010年8月30日
ISBN 978-4-902854-76-3 C0022


●著者紹介

ラス・ビハリ・ボース

1886年生まれ、1945年歿。インド独立闘争指導者。暴力的反英運動のリーダーとしてイギリス政府よりの多額の懸賞金つき指名手配者となり、1915年、日本へ逃亡。同年末、イギリスからの圧力で日本外務省より国外退去命令を受けるが、頭山満ら玄洋社・黒龍会系のアジア主義者の補助で逃亡、東京新宿の中村屋に保護される。中村屋主人夫妻の娘と結婚し、二子をもうけ、日本に帰化。在野のアジア主義者や政治家、軍人等と交わり、また一般に対してもインド独立闘争、インド文化の啓蒙活動につとめ、日本にありながら終生インド独立闘争を指導する。

●目 次

第一部 インド国民主義と独立運動

1. インドの輪廓

2. インドに於ける英国の政治は彼等の言う如く「経済的」か

3. インドに於ける英国の帝国主義

4. 英国統治の下に喘ぐインド

5. 英国とインドの公債務

6. 剥奪されたインドの自由

7. 苦難のインド

8. インド国民主義の進展

9. 革命的独立運動の拡大

10. 英国のインド「自治訓練」の虚偽

11. インドの富は如何に英国に「漏出」したか、又、「漏出」しつつあるか

12. 英統治下に於けるインド人民の経済状態

13. 飢饉とその原因

14. 独立運動の現状

15. 「非暴力」運動に関する英人の評論

16. 英領インド政府の行政費用

17. 執行条令によるインド支配

18. 黎明期にあるインド婦人の愛国運動

第二部 国民の叫び (ガンジー演説選)

1. 国民の要求

2. 立 法

3. 二つの試問

4. 国民会議と少数族

5. 最高法廷

6. デモクラシーの否認

7. 防 衛

8. 産業的差別扱い

9. 財 政

10. 州の自治

11. 運用方法

*元本:『革命の印度』(1932年、木星社書院刊行)

●序 文

 一九一五年の春二月十九日、パンジャブ州のラホール市を中心として、北部インド全体に亘って武力的革命を起そうとした処が失敗し、数百名のインド聯隊及び聯隊外の同志は捕えられて投獄され、更に銃殺されたので、余は再び外国から援助を得てインド解放運動をする目的で日本に亡命して来た。それは大正四年のことであった。大隈さんは総理大臣で枢密院顧問官石井菊次郎氏が外務大臣であった。日本に来て当時日本に亡命中の中華民国の孫逸仙(孫文)と親しく交り、同氏は余に凡ゆる方面に於て援助を与えた。氏は余の身辺に就て非常に心配し、特に英国は余を捕えるために、インドに莫大なる金の懸賞を発表し、各停車場、警察署等に余の写真を貼り付け、余の居所を極力捜索していたのである。故に、余が日本に居ると云う事がわかれば、英国政府は余を引渡すことを、日本政府に向って要求しないとも限らないので、孫氏は余が一日も早く頭山満先生、故寺尾博士等に事情を話して万一の場合に援助を頼んだ方がいいと言った。それで余は、孫文氏、故宮崎滔天氏の紹介で頭山先生等と知り合いになったのである。

 同年の秋、十一月下旬、突然日本政府から退去命令をうけた。たしか二十七日だったと思う。翌十二月の二日までに日本を去らなければならぬと云うことが退去命令の内容であった。二日までの間に日本から出る船は、全部上海を経由しなければならぬようになっていたので、余は命令通りに日本を去れば、上海で英国官憲に捕えられ、死刑に処されることは確かだから、頭山満先生、故犬養前首相等は退去命令の取消し、或は米国に行かれるように期限を延ばすことに努力されたけれども、当時の政府は承知しなかった。で、頭山先生等は外の方法をとるより道がないと考えた。

 同年十二月の一日であった。頭山先生の使いが余の処に来て、夕刻迄に先生のお宅へ来る様にと言われた。当時の東京の各新聞社の代表者は帝国ホテルに集り、余をこの難局から救う為に協議していたので、余は先きに帝国ホテルに行き、代表者に礼を述べ、尽力を頼み、夕刻頭山先生の霊南坂の家に行った。二階の広間に先生の十名以上のお弟子が居られた。余は入るとすぐに日本の外套を着せられ、勝手の裏口から宮川一貫氏に連れられ、裏の方の路へ案内され、そこに待っていた自動車に乗せられて佃信夫氏及び新宿中村屋主人相馬愛蔵氏(義父)に守られて中村屋の裏二階の六畳の間に連れ込まれたのである。頭山先生の表門に余を何時も尾行していた四名の巡査が、余が夜の十二時になっても出て来なかったので、先生の女中に訪ねたところ、「インドのお客さんは疾うに帰った」と言われて非常に狼狽し、警視庁にこの事を電話で知らせた。で、警視庁は全力を挙げて余を捜査しはじめた。

 大正五年四月の中旬まで中村屋の一室に閉じ籠って生活をした。その後頭山先生一派と、当時の政府との間に妥協が成立し、警視庁から、英国に知れない様に余を保護する事が約され、それから凡そ八年間、余は巡査に守られて、東京中を転々として蔭れた生活をしなければならなかった。その後は漸く自由になって、公然に活動が出来るようになった。一方から見れば、余に対する退去命令は余に苦痛を感じさせたのであったが、他方では、この退去問題のために日本人がインド問題に注意する様になった故に、これは不幸中の幸と云わねばならぬ。

 その時以来、日本人中の多くの人はインド及びアジア問題を研究する様になり、更に興味を持ちアジア人のためのアジアと云う主義が日毎に拡がったのである。余としてはこの方面に日本人の同志と共に出来るだけ努力し、数年前に長崎及び上海に於てアジア民族会議を開き、絶えずアジア諸国の事情を日本に紹介して来た。そして昨年、万里閣から『革命アジアの展望』〔中谷武世共著『革命亜細亜展望』〕を出版し、昨年はインド文化を紹介する目的で厚生閣から『インド頓智百譚』を出し、今度、木星社よりこの書を出版することになった。

 今日、極く少数の白人が多数の有色人を支配していることは不自然で天意に叛いている。この有様を変えて、アジアから白人勢力を駆逐することは、アジア人のみならず、人類に対する愛を持っている正義、人道、自由を崇拝する人々の急務である。インドがアジアに於ける白人帝国主義及び侵略主義の基礎である。この基礎を破壊することが出来れば――インドを英国の悪政から解放することが出来れば、始めてアジアに於ける白人勢力は根絶される故に、インド問題は特に日本人として研究の必要があると思う。その目的の下に、微力ながら余はここにインド問題を論じ、そしてこれに依って僅か一人の日本人だけでもインドに関する智識を得ることが出来れば、余としては光栄に思うのである。

 最後にこの本の原稿が出来上った後の出来事に就いて少し書き加えたい。

 今年の八月に英国政府は、インドに於て来年から実施される新憲法に、種族宗教及び階級別の選挙区制を設けたと発表した。それはインド中央議会でなくて、各州の議会の議員選出のために設けられたのである。勿論、インドの大多数の国民を代表している処のインド国民会議派は、インド人に軍事外交及び財政に就いて完全なる権利を与えないこの新憲法に全然反対である。然し、少部分のインド人はこれに賛成している。

 故に政府は無理にもこれを英国議会を通過させて、この憲法によってインドに実力的な所謂議会制度を設ける。然しこの議会に関して、種族、宗教及び階級別の選挙区制令が設けられれば、インド人の国家的観念が鈍くなり、種族、階級、宗教団体的観念が強くなるので、エルワタ監獄に監禁されていたマハトマ・ガンジー氏は、九月二十日、絶食断行を発表した。特に新選挙区制に同じインド教徒の階級が別々にされたのは、ガンジー氏の反対の主なる意味であった。

 インドとして最悪な、且つ最も不幸なことは、宗教及び階級的闘争である。英国は西暦一七五七年(即ち、始めて現在のベンゴール州に於て政権を取ったとき)以来、この闘争を利用し、離間政策を用いて全インドを征服したのみならず、今日までそれを統治している。その結果はインド人の中に、国家的精神より、寧ろ宗教団体的、或は階級的精神が有力になって来た。而して、インド国民会議が一八八五年に生れて以来、国家的愛国心を奨励して来たため、今日の国民運動は非常なる進歩を遂げることが出来た。国民会議のうちに、凡ゆる宗教、凡ゆる階級の人々が入っていて、この会議を通して全体のインド人に、政治上に宗教団体的、或は階級的観念でなく、国家的観念を持たせるために努力している。この主義に基づいて、昨年ロンドンに開かれた第二回英印円卓会議に於て、ガンジー氏は、宗教及び階級種族別の選挙区制に反抗し、一般の選挙的区制を主張したのである。しかし、英国に任命されて円卓会議に出席したインド人代表者はこれに反対した。その結果、この度英国政府は、インドの新憲法に、宗教団体、及び階級別選挙区制を設けることに決定した。

 例えば、ベンゴールの州議会の総議員数は二百五十名で、その割当ては左の如くである。

  回教徒 119名
  インド教徒 70名
  インド教徒中の最下級の人 10名
  英印人 4名
  ヨーロッパ人 11名
  商工業方面代表 19名
  大地主 5名
  大学代表 3名
  労働者議員 8名
  キリスト教のインド人 2名

 これを見れば、インド教徒及び回教徒は別々の選挙区を有するのみならず、インド教徒中の最下級の人々にまで別な選挙区を有するのである。又耶蘇〔ヤソ〕教徒の中でも、インド人英印人及びヨーロッパ人もまた、別々な選挙区を有するのである。

 然るが故に、インド人中に自然に余計な争いが生じるのである。また国家的観念或はインド人的観念は薄くならなければならないのである。それがためこの度インド国民の多数を代表しているインド国民会議の指導者ガンジー氏は、この離間政策上の選挙区制に反対を唱えているのである。ガンジー氏の絶食断行は、英国のこの案に対する反抗の意味というより、寧ろかくの如き非国家的観念の選挙区制に、国民会議派以外のインド人が賛成せぬ様に彼達に訴えているのである。

 そこで数日後に、インド教徒中の上中流階級と最下級(被圧迫階級)との選挙区制度に対する妥協が成立し、即ちインド教徒中の階級的選挙区制度が改正され、英国政府も止むを得ずこれに賛成したので、ガンジー氏は絶食を中止した。然しインド教徒以外の、例えば回教徒、耶蘇教徒の場合に宗教団体的選挙区制が残っているので、この問題は完全に未だ解決されていない。インドとしてはインドの完全なる独立と云う根本問題の解決されない中に、来年、英国がインドに新憲法を与えても、インドの国民会議派は、インド独立運動を中止することは出来ない。今後の十ヶ年はインドとして一番大切な時であって、インドの運命は恐らくこの間に完全に決まるのである。

 1932年 ラス・ビハリ・ボース