富士川游著 医術と宗教 ユニークで明快な宗教論 なぜ 《医学と倫理》 ではなく 《医術と宗教》 なのか。――空前絶後の大業績 『日本医学史』 で日本医史学を確立した富士川游が説く、近代的医療観と現代的状況への根本的批判。 最新の実践科学であると同時に生命の救済行為でもある医療をめぐって、救済と技術の関係を問う。 |
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著者 富士川游
書名 医術と宗教
体裁・価格 四六判上製 224p 定価3630円(本体3300円+税10%)
刊行日 2010年10月20日
ISBN 978-4-902854-78-7 C0014
●著者紹介
富士川游 (ふじかわ・ゆう)
1865年(慶応元年)安芸国沼田郡生まれ。1940年(昭和15年)歿。医学・医史学者。大著『日本医学史』を刊行し日本の医史学を確立。『日本医学史綱要』『日本疾病史』(現在ともに平凡社東洋文庫版)ほか、医史学・医学および宗教論の厖大な著作群を遺す。
◎医師藤川雪とタネの長男として誕生。七歳のとき藤川から富士川へ改姓される。 ◎1881年(明治14年・16歳)、母タネ死去。広島県病院附属医学校入学。 ◎1887年(明治20年・22歳)、広島医学校を卒業し上京。明治生命保険会社の保険医となり、また中外医事新報社に入る。 ◎1889年(明治22年・24歳)、医師免許証下附。複数の医学雑誌を創刊。 ◎1891年(明治24年・26歳)、この頃から医史学研究をはじめ、史料収集に努める。明治以前の和漢医書と江戸中期以降主として幕末期の西洋医学書の翻訳書からなるその厖大な蔵書9017冊は、現在、京都大学附属図書館所蔵富士川文庫として管理されている。 ◎1892年(明治25年・27歳)、伊藤カズ子と結婚。 ◎1895年(明治28年・30歳)、呉秀三とともに医史社を興す。 ◎1898年(明治31年・33歳)、父雪死去。ヨーロッパ留学。イェナ大学医学部入学。内科学、ことに神経病学および理学的療法を修める。 ◎1900年(明治33年・35歳)、イェナ大学からドクトル・メディチーネの学位を受ける。日本橋中洲養生院内科医長となる。 ◎1904年(明治37年・39歳)、大著『日本医学史』刊行。 ◎1910年(明治43年・45歳)、中洲養生院内科医長退任。 ◎1912年(明治45年・47歳)、『日本疾病史』刊行。『日本医学史』に対し帝国学士院より恩賜賞授与。 ◎1914年(大正3年・49歳)、文学博士の学位を受ける。 ◎1915年(大正4年・50歳)、親鸞聖人讃仰会を創立。 ◎1924年(大正13年・59歳)、大阪に中山文化研究所が創設され所長となる。 ◎1927年(昭和2年・62歳)、前身団体を発展させるかたちで日本医史学会を設立。 ◎1928年(昭和3年・63歳)、『中外医事新報』を日本医史学会の機関誌とし、「日本医学史綱要」を連載しはじめる。 ◎1932年(昭和7年・67歳)、カズ子夫人死去。 ◎1933年(昭和8年・68歳)、『日本医学史綱要』刊行。 ◎1937年(昭和12年・72歳)、本書『医術と宗教』刊行。 ◎1940年(昭和15年・75歳)、10月5日に胆石病にて臥床、11月6日に死去。
●目 次
・ 緒 言
・ 医 学
・ 医 術
・ 医 家
・ 病 人
・ 疾 病
・ 医家対病人
・ 宗 教(上)
・ 宗 教(中)
・ 宗 教(下)
・ 信 仰
・ 神 仏
・ 内 観
・ 道 徳
・ 仁 慈
・ 謙 虚
・ 忍 辱
・ 生 死
・ 結 論
●本書の立場の要約的ご紹介
医療は最新の実践科学であると同時に、生命の救済行為でもある。他者を救うにあたっては、倫理/道徳の次元、つまり 《ねばならない》 の次元に立つだけでは、人間が本来もつ功利性の克服 ―― 《私》 を去ること ―― は結局 《嘘》 にとどまらざるをえず、救済は十分に果たされない。一歩を進め、誰もが生得的にもつ 《ある種の精神状態=宗教》 に立つ時に、医療は生きる。