野上豊一郎批評集成 能 と は 何 か [上]入門篇 [下]専門篇 能は、演者と観客の共同演出である あの「分からなさ」が一転して比類なき魅力へと裏返る「発見」の数々。 能楽研究の開拓者の名著=主著三部作収録の全論文を、入門篇/専門篇に再構成し、各巻においてはさらにテーマで分類(役者論・奥義論・構成論・様式論・面論・謡曲論)。 初学者と玄人それぞれの「能とは何か」という問いと探究心にこたえる二冊構成。 ●曲名索引項目数 290 ◎下巻の書影表示はマウスポインターで書影画像にふれて下さい |
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著者 野上豊一郎
書名 野上豊一郎批評集成 能とは何か [上]入門篇 [下]専門篇
体裁・価格・上巻 A5判上製 352p 定価5170円(本体4700円+税10%)
体裁・価格・下巻 A5判上製 384p 定価6270円(本体5700円+税10%)
刊行日 2009年10月30日
ISBN・上巻 978-4-902854-64-0 C0074
ISBN・下巻 978-4-902854-65-7 C0074
●著者紹介
野上豊一郎 (のがみ・とよいちろう)
1883年生、1950年歿。東京帝国大学文学部英文学科卒業。夏目漱石門下生。野上弥生子の夫。号は臼川。イギリス・ギリシャ劇の研究から能の研究へ進む。能や世阿弥の海外への紹介にも尽力し、1938年には日英交換教授として外務省から派遣され、ケンブリッジ大学などで世阿弥を講義し、自ら監修した能の初のトーキー「葵上」を紹介して反響を呼んだ。1908年の大学卒業の翌年、法政大学講師となり、予科長・学監を経て、1947年に法政大学総長となり、文学部内に能楽研究室を設置。歿後、能楽研究室が拡充されて野上記念法政大学能楽研究所が発足。同研究所は現在も能楽研究の最前線を担っている。主な著書に『能――研究と発見』『能の再生』『能の幽玄と花』の三部作、『能の話(岩波新書)』『能二百四十番』『世阿弥元清』『観阿弥清次』『能面』『能面論考』『花伝書研究』等。編集監修書に『解註謡曲全集(全6冊)』、『能楽全書(全6巻)』等。翻訳書にロチ原著『お菊さん(岩波文庫)』等。世阿弥『風姿花伝(岩波文庫)』校訂者。
●上巻目次
原本序言
『能 ―― 研究と発見』序言
『能の再生』序言
『能の幽玄と花』序言
I 役 者 論
能の主役一人主義
子方の舞台的効果
ワキの舞台的存在理由
能の戯曲的傾向
II 奥 義 論
物 狂 考
能の遊狂精神
能の幽玄
能 の 花
III 構成論 様式論
序破急の理論
能の写実主義と様式化
扮装の様式化と自由精神
能の構成と近代的傾向
能の幽霊
IV 面 論
能面創作の心理
女 面
V 謡 曲 論
謡曲の翻訳
●下巻目次
I 奥 義 論
能の位、殊に闌位について
物真似・幽玄と能の錬成
II 構成論 様式論
能の局面区分法
能の構成
合唱歌の非戯曲的性質――能とギリシア劇との比較
能と狂言の接合――間狂言の発達
〈翁〉と喜劇精神
能と敬老思想――前ジテの老翁について
能と日本主義思想
III 謡 曲 論
謡曲「車屋本」考
謡曲原典批判の一例
謡曲「三藐院本」
IV 面 論
伎楽面、舞楽面及び能面
尉 面
般若の面と蛇の面
●本書中の言葉より ◎上巻
◎偉大な作者であり、また恐らく偉大な役者であった世阿弥元清は、同時に、偉大な演出者でもあった。彼がいかに偉大な演出者であったかは、彼がいかに実際的な演出者であったかによって最も確実に証明されねばならぬ。実際的な演出者は常に決して見物人を忘れない。見物人を忘れないのは、演出の目的を忘れないことである。演出の目的は、見物人を演戯の中へ完全に引き入れるところにある。言い換えれば、それは見物人を共同作業者にすることである。見物人に、作者と共に能を作らせ、役者と共に能を演じさせる。その共同作業が行われなければ、能は演出されないも同じである。
◎〈角田川〉の作成者はこの場合の母親の激情を表現するには、百のくどくどしい身振手振をば必要とせず、ただこの一つの甚しくすばらしき動作を以って十分だと考えたに相違ない。それは十の九を省略した残の一ではなくして、初めから一を以って十を表わそうと企てたる甚だ野心的な、その後にアルファの附け加えられた一である。
◎これはすべての芸術的表現について言い得ることであるが、われわれの標準はわれわれの外にあり得ない。例えば、われわれが「ハムレット」を演出する時、シェークスピアの標準で演出するということが可能であろうか。あるいは、われわれが「オイディプス」を演出すると仮定して、ソプォクレスの行き方で演出し得るというようなことが想像されるだろうか。能についても、世阿弥を標準にするとか、禅竹を標準にするとか、そういうことは夢想以外の何物でもあり得ない。何となれば、われわれは世阿弥をも知らなければ、禅竹をも知らないから。世阿弥・禅竹はおろか、近代の九郎・実・左陣を標準にすることさえ無意義である。何となれば、われわれは九郎でもなければ実でもなければ左陣でもないから。われわれはわれわれである。われわれが左陣を模傚して、左陣の如く舞い得たとしても、それは一個の小左陣であって、われわれではない。われわれはどこまでもわれわれであらねばならぬ。しかし、こういう言い方はそそっかしい人を誤解せしめるかも知れないから、わかりきったことを説明して置くと、われわれは能の表現の伝統を無視せよというのではない。能の表現的技術は今日五世紀間の才能の堆積の上に攀じ登って、そこから出発すべきであることは云うまでもない。標準といったのは、そこから出発する時のわれわれの進路を指導するものである。その指導者は自己以外には決してあり得ないということを云ったのである。
◎さすがに世阿弥は活眼の士であったから、芸術の進むべき道を正しく見ていた。習得の範囲はいかに広汎にわたっても、表現の門はただ一つきりないことを知っていた。自己の心意がそれである。いかなる大家の芸風といえども、何ほどの大衆の要望といえども、自己の心意の納得を経ないものは断じて行うべきでない。また、自己の心意の命ずるところは千万人といえどもわれ行かんの勇気を必要とするのである。能に限らず、すべての舞台芸術に於いて、表現の心意的基準が自己に置かれれば、その表現は自己のものであるから、高くとも低くとも、生命を保持することは可能である。生命のないところに芸術はない。表現は生命の具象化である。
◎私の言おうとしていることは、新しい目を以って見、新しい頭を以って考えるのでなければ、能の最も本質的なものは捉めないというのである。一種の言い方をして言うならば、能の本統に芸術的な研究は、われわれが外国人の目を以って見直し、外国人の頭を以って考え直すところから始まらねばならぬ。それは、とりもなおさず、能の秩序正しくきらびやかに飾り立てられた形態の中から、最も重要なものを抽出することである。そうしてそれが果して表現の適量を得ているか否かを検討することである。芸術は、他の部門の技術と同じように、常にその発展の道程が、分化的に曲げられる傾向を持つために、専門家はややもすれば枝葉末節の技巧の鍛錬に全力を費して、根本の精神を忘れがちである。そうして習慣は人を無反省にするが故に、批評家もまたしばしば根本を忘れて枝葉末節の問題に拘泥する。そういった状態で長い間終始して来たために、今日すでに中風症に罹かりつつある能に対して更生の道を講じようとするならば、その症状の因って来たるところの根源を捜らねばならぬ。能の断えず流動する形態様式をば決定的なものと見ないで、何がそれを流動せしめるかについて十分に考究しなければならぬ。能をわれわれの生活の上に再生させるには、ほかに方法はない。能を果してわれわれの生活の上に再生させ得るか否かの可能は、われわれがいかに正確に能を理解し得るか否かの上に懸かっている。それ故に、能の再生の問題は、われわれにとって目的であり、理解の問題は手段となる。
●本書中の言葉より ◎下巻
◎私は世阿弥を読む人が幽玄をば祖述するけれども、ほとんど一人として未だ彼が闌位に最大価値を置いていることに注意を払う者がないのを不思議に思っている一人である。幽玄の律時を説くことが必ずしも小乗的とは云えないであろうが、能の表現の究竟至極の精神は闌位について見なければ到底感得することが出来ないのは事実である。それ故に私はこれを大乗的と呼びたい。日本的と云ったのもその意味である。或いは東洋的と云ってもよいかも知れない。それは西洋的なるものの論理的・数理的であるのに対して超論理的・超数理的であることを意味する。
◎こういった非論理的な約束が平気に承認されるというのは、能の表現の根柢に横たわる大きな自由精神から結果するものであって、すなわち、一つの真実の美をさえ完全に表現することができるならば、その他のすべてのものをば犠牲にしてもよいという大胆不敵な決意がそれを励ましている。そのために能は単一の主題を非常に高尚に表わすことに成功し、戯曲形式の上では主役一人主義の特殊の演戯として発達の道を辿った。
◎これによって私たちは能面の表現力は必ずしも能面その物の中には存在しないことを知らねばならぬ。それなら、何処にそれは在るか。曰く、能面の後に在る。それを懸けた頭の中に在る。心根、精神、気魄、そういったような言葉でそれを説明することが出来る。すべて日本の技芸のすぐれたものは気魄がこもって初めて仕上げられるものが多い。能とてもそうである。舞、謡、囃子、皆気魄である。気魄の在る所にのみ生命は活躍し、気魄のない所に生命はやどらない。能面がこの気魄に依って生かされることは、私をして云わしめるならば、能面が伎楽面よりも、また舞楽面よりも、遥かによくその目的を理解していることを示すものであって、これが私の、仮面中で能面を最も進歩したものだと断定する所以である。ここに能面がその目的を理解しているというのは、言い換えれば、能面がそれ自身一箇の完成された芸術品を以って任じないで、どこまでも演戯のための一方便として工夫されたものであることを忘れずに、全力をつくして有効に奉仕しようと努めていることを意味するのである。この点、伎楽面は最も初級的であり、舞楽面は一層進んではいるけれども、なお表現の図案化その物に興味を持って楽しんでいる所に徹底しない所があり、ひとり能面のみは仮面としての使命を最もよく自覚していると云い得るのである。
◎能になお今日われわれが学ぶべき何物かを見出すとするならば、それはそういう思想的方面からではなく、もっと遥かに価値多い様式の方面からでなければならぬ。能がすでに五世紀の老齢に達しているにもかかわらず、なおわれわれがあまり多くの距離を感じることなしにそれに接し得る主要の点は、それを様式の完成にまで運んで行った異常な表現の力で、もしその力が室町時代における能の場合の如く飽和的にわれわれの観念を表現し得るとしたならば、それが今日ややもすればわれわれに感じさせる傾向を持っているような、老齢的な、硬化的なものでなく、恐らくはそれが創成当時において感じさせたであろう如き、新鮮な、自由な、充実した、そうして多分に社会的意義をその中に判読することのできるような芸術をわれわれに約束するであろう。その予想なしには、能の研究はほとんど無意義なものであり、単なる道楽に過ぎない。われわれは能の研究からそういう道楽的気分を篩い分けねばならぬ。