Shoshi Shinsui




中江兆民著

楽読原文 三酔人経綸問答

併録 中江兆民奇行談 岩崎徂堂著

洋学紳士君、豪傑君、南海先生の三人が、酒を呑みつつ戦わす、近代日本政治論議の原型。

●1965年以来現代語訳で読まれてきた、東洋のルソーこと中江兆民の代表作『三酔人』ですが、やはり名作は原文のリズムで読みたい。しかし、原文そのままではいかにも読みにくい。そこで、兆民節はそのままの「楽読原文」です。 ●「楽読原文」とは、楽に読める原文というほどのつもりの造語ですが、文字づかいや句読点の表記を変えることなどにより、「原文」と呼べる範囲内でなるべく読みやすくしようと試みたものです。ひと言でいえば「声に出して読んだら原文と同じ」だが、表記が違うということです。

●併録『中江兆民奇行談』―― わが陰嚢を引き伸ばして杯となし、芸者に一杯のませたという戯れ事から、真面目な政治的諷刺としての奇行まで。 ●原文も参考資料として付録しました。

   

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著者 中江兆民 なかえ・ちょうみん (中江篤介 なかえ・とくすけ)
併録著者 岩崎徂堂 いわさき・そどう (岩崎勝三郎 いわさき・かつさぶろう)
書名 楽読原文 三酔人経綸問答 (併録 中江兆民奇行談)
体裁・価格 A5判上製 240p 定価3630円(本体3300円+税10%)
刊行日 2009年5月30日
ISBN 978-4-902854-59-6 C0095


著者紹介

中江兆民 (1847=弘化4年生 1901=明治34年歿)

●1847年(1歳)、土佐高知に生まれる。父は土佐藩足軽。長男。幼名は竹馬、のち篤助、篤介と称す。1887年ころから兆民と号す。●1861年(15歳)、父死去、家督相続。●1865年(19歳)、土佐藩留学生として長崎へ。フランス語を学ぶ。●1967年(21歳)、江戸に移り村上英俊の塾でフランス語を学ぶが娼楼遊びなど不品行のため破門。フランス公使、領事の通訳を務める。●1868年(22歳)、苗字を許され中江と名のる。●1869年(23歳)、箕作麟祥の塾に入り福地源一郎、大井憲太郎を知る。福地の塾でフランス学担当。●1870年(24歳)、大学南校大得業生となりフランス語を教授。●1871年(25歳)、大久保利通らの斡旋で司法省所属としてフランス留学を命じられ、岩倉全権大使一行に随う。アメリカ経由で、1872年よりリヨン、1873年よりパリに滞在。パリで西園寺公望と交わる。●1874年(28歳)、帰国し仏蘭西学舎開校(のち仏学塾)。●1875年(29歳)、東京外国語学校校長就任、すぐ辞任。元老院権少書記官となる。翌々年辞職。●1881年(35歳)、『東洋自由新聞』創刊、廃刊。●1882年(36歳)、『政理叢談』(改題『欧米政理叢談』)発刊し「民約訳解」連載。『民約訳解・巻之一』刊行。●1883年(37歳)、著訳出版会社設立。日本出版会社設立、社長に。『維氏美学・上冊』(ヴェロン原著)刊行。●1884年(38歳)、『維氏美学・下冊』刊行。●1886年(40歳)、『理学鉤玄』刊行。仏学塾廃校。●1887年(41歳)、松沢弥子(いよこ/ちの)との間に長女千美(ちび)生まれる。『三酔人経綸問答』、『平民の目さまし』、校閲担当『仏和辞林』刊行。保安条例により東京追放、大阪へ。●1888年(42歳)大阪で『東雲新聞』創刊、主筆に。幸徳秋水(17歳)住み込みの学僕となる。『国会論』刊行。●1889年(43歳)、長男丑吉生まれる。弥子入籍。保安条例解除、一家東京へ。●1890年(44歳)大井憲太郎らと再興自由党趣意書起草。『撰挙人目ざまし』刊行。第一回衆議院議員選挙当選(大阪第四区)。『自由新聞』創刊、主筆に。●1891年(45歳)、『立憲自由新聞』創刊、主筆に。アルコール中毒病にて歩行困難との理由で議員辞職。『自由平等経綸』創刊、主筆に。小樽へ移り『北門新報』主筆に(母の看病のためほどなく帰京)。●1892年(46歳)、母死去。再び小樽へ。『北門新報』退社し、札幌で紙問屋開業、失敗。帰京。『四民の目さまし』刊行。●1893年(47歳)、北海道山林組設立。●1897年(51歳)、中央清潔会社設立。旧仏学塾関係者を糾合し国民党結成。●1898年(52歳)、国民党機関誌『百零一』創刊。東亜石油会社設立。吾妻鉄道会社設立、取締役に。●1900年(54歳)、『毎夕新聞』主筆。咽喉に異変。●1901年(55歳)、4月、喉頭癌と診断され余命一年半の宣告を受ける。5月、気管切開手術、9月『一年有半』刊行。10月『続一年有半』刊行。12月13日死去。遺言による解剖の結果、死因食道癌と判明。12月17日、青山斎場で宗教儀式を廃した告別式。参列者千余名中の著名人に、板垣退助、大井憲太郎、頭山満、徳富蘇峰、原敬、幸徳秋水ら。遺骨は東京青山墓地の母(柳)の墓の隣に埋葬される。墓碑はなし。




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