――「天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚いている。」芥川龍之介『侏儒の言葉』
(…)『百人一首改観抄』は寛延元年(一七四八年)の刊行である。本居宣長が上京して堀景山のもとで契沖の著作に接したのはそれより四年ののちである。一方、荒れていた円珠庵の契沖の墓域も修理されて、寛保三年(一七四三年)撰文の五井蘭洲の碑が建設された。契沖の業績が世間に注目されるようになったのはこの頃のことと思われる。(…)契沖の名が更に世上に高まって、ポピュラーになったのは寛政に入ってからであろう。その名が世人に知られるにあずかって力のあったのは伴蒿蹊著の『近世畸人伝』に載る契沖伝によってであろうと思われる。(…)『畸人伝』は安藤為章の『年山打聞』に載っている契沖の「行実」、ならびに、義剛の『遺事』によって撰ったのである。
逍遥院をはじめとして、近世の先達道にくらきのみならず、歌学にくらし、故に古書の注解など、ことにあさあさしくして、あやまり多し。(…)さて又近世の歌学の大厄は、あるひは西三条殿の説ぞ、幽齋の説ぞなとといへは、よくてもあしくても、御家の説なと云て、一偏にこれを用ひて、他家の説は、よくても一向にとらず、これいふにたらぬおろかなる事也、すへてかの逍遥院殿の説なとも、古書をばひろく考へずして、たたみたりに自分の憶説にてすまし、又はちかき世のはかはかしからぬ説を引て、ふるきたしかなる説を考ふると云事なし。
(『本居宣長全集第二巻』、一九六八年、筑摩書房、七七―七八ページ。なお、原文の仮名はカタカナであるが、読みにくいので平仮名に換えた。また、繰り返し記号は入力が難しいので「あさあさしく」「たたみたりに」のように同じ文字をそのまま繰り返した。以下すべて同じ。)
ここに難波の契冲師は、はじめて一大明眼を開きて、此道の陰晦をなげき、古書によつて、近世の妄説をやふり、はしめて本来の面目をみつけえたり、大凡近来此人のいつる迄は、上下の人々みな酒にゑひ、夢をみてゐる如くにて、たはひなし、此人いてておとろかしたる。