地図から消えた国、アカディの記憶 『エヴァンジェリンヌ』とアカディアンの歴史 カナダ東海岸、ケベックとアメリカのはざまで 人々は追放され、そして戻った。フランス語は消え、そして蘇った。 英仏二言語が真に共存する地域、美しい海岸と草地と森の「失われた国」。英仏植民地争奪戦で散りぢりにされ、しかし生きかえった人々の「国なき国」におけるアイデンティティと言語権。知られざるアカディ問題を歴史と文学の二側面から紹介する初の本格的成果。 19世紀アメリカの文豪ロングフェローがエヴァンジェリンヌの悲劇の人生をうたい上げる長編詩『エヴァンジェリンヌ』と、大矢タカヤスによる現地取材を踏まえた「アカディの歴史」の二部構成。 |
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著者 大矢タカヤス / ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー
書名 地図から消えた国、アカディの記憶 『エヴァンジェリンヌ』とアカディアンの歴史
体裁・価格 四六判上製 352p 定価3080円(本体2800円+税10%)
刊行日 2008年6月20日
ISBN 978-4-902854-46-6 C0022
著者紹介
大矢タカヤス (おおや・たかやす)
1944年生まれ。東京大学博士課程中退。現在、東京学芸大学教授、「多言語多文化」教室所属。著書『バイカルチャーものがたり』、編著『バルザック「人間喜劇」全作品あらすじ』、訳書『19世紀フランス小説』(ローズ・フォルタシエ著)など。
Henry Wadsworth LONGFELLOW (ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー)
1807年アメリカ合衆国メイン州ポートランド生まれ、1882年歿。ハーヴァード大学教授。詩人、翻訳家。詩集『夜の声』、翻訳『神曲』(ダンテ著)など。抒情詩人として令名が高かった。
主要目次
*本書 281 ページ地図のタイトルが「ヌーヴェル……」となっていますが、正しくは「ヌヴォー……」です。
第 I 部 エヴァンジェリンヌ
エヴァンジェリンヌ――あるアカディの物語(ロングフェロー作)
第 II 部 アカディの歴史(大矢タカヤス著)
序 章
プトランクールの夢(1604〜1624年)
戦国時代(1627〜1654年)
英仏対立の狭間で(1654〜1713年)
はかなきもの、汝の名はことば
破局に至る繁栄(1713〜1744年)
破局、または「大騒動」(1755年)
ディアスポラの始まり
三つの大陸へちりぢりに
闇の中の光、ニューブランズウィック植民地の成立
ことばの力
ことばを守るために
再生への道
再生から共存へ
終 章
CDブレイク(1) 「数アルパンの雪のために」
CDブレイク(2) 幻の「エヴァンジェリンヌ」
CDブレイク(3) 「シヤック」で唄えば……
本書「はじめに」(大矢タカヤス)より
「樹が泣いている」ふと私はそう思いました。二〇〇四年夏のある朝、カナダ東部のディグビーという港町でジョギングをしているときのことでした。雨の気配などまったくない晴れた日が続いているのに樹々の下が円く濡れているのです。そして時おり、水の滴も落ちてきます。雲もない青空の下で樹々が静かに泣いている、そんな風に私は感じたのです。それには多分、日本とは時差がちょうど十二時間もある地球の裏側まで私がはるばる旅をすることになった理由が幾分影響していたかもしれません。
その夏、カナダ東海岸のノヴァスコシア州で、アカディ入植四百年を記念する行事があちこちで盛大に行われていました。そして当時の入植者の末裔、アカディアンと呼ばれる人々がヨーロッパやアメリカの各地から、まるで故郷の河をめざす鮭たちのように、続々と集まって来ていたのです。州でただひとつのフランス系大学、サン・タンヌ大学でも一週間にわたって国際シンポジウムが開かれ、アカディがさまざまな角度から討議されることになっていました。
アカディ、そんな国はどこにもありませんし、カナダ沿海三州の郡名にさえありません。しかし、自分がアカディアンである、あるいはアカディアンの子孫である、という人は、一説では世界に三百万人もいるのです。どのようないきさつでそれらの人々が今や名前しか存在しない、いわば「ヴァーチャルな」土地を故郷と思い定め、共通の絆で結び合っているのでしょうか。
それに答えるためにはカナダ史の、日本ではあまり知られていない一ページを開いてみる必要がありますが、それは第II部の「歴史」に譲るとして、十八世紀の半ばアカディと呼ばれていた土地からイギリス軍によってのちにアメリカ合衆国となる南のイギリス植民地に強制移住させられたフランス系開拓者たちの悲しい思い出が、一世紀のちに一人のアメリカの詩人によって謳われ、この詩がカナダはもとよりアメリカ、ヨーロッパのあちこちにちりぢりになっていた彼らの子孫たちの心を強く打ったという事実は、文学が現実の社会にひとつの力として働きかけ得たという顕然たる例として記憶にとどめる価値があるでしょう。さらに、英語の原詩を最初に読んだアメリカ人たちを初めとして、その後続々と刊行されたさまざまな言語への翻訳によって世界中の人間が、主人公の若い男女の悲劇の背後に浮き彫りになった悲痛な歴史に胸を衝かれたのです。そしてまさにこの恋人たちが生まれ育ち、あの強制追放さえなかったら幸せな家庭を築いていたであろうグラン・プレの村は、ディグビーの町の東わずか一三〇キロほどのところにあり、その名どおり「大きな草地」の真中にある村の教会を私もすでに幾度か訪れていました。私がトロントでの乗り換えも含めると十五時間以上もかけてハリファックスまでたどり着き、カタコトの英語でレンタカーを借り、知らない道をおっかなびっくり二三〇キロやってきたこの旅の遠い出発点はこの二人の悲しい物語にあったと言ってもいいのです。
ただ、私のもともとの専門はフランス文学です。この詩『エヴァンジェリンヌ』(英語式の表記では「エヴァンジェリン」)も初めは仏訳で読みました。英語版も何種類か持っていましたが、厳密に読んだことはありませんでした。約八十年前の古い訳だとはいえ邦訳もまだなんとか入手できますし、自分でこの詩を英語から訳すなどという大それたことは考えてもみませんでした。それが原詩から自分で日本語にしてみようという気になったのは、やはりこの年の夏、アカディ研究の大先輩である太田和子さんにサン・タンヌ大学で出会い、ひょんなことから少しだけ英語から訳してくれるように頼まれたからです。大先輩といっても私よりは年下なのですが、太田さんは学生時代からアカディ研究に打ち込み、おそらく日本で最初に本格的にアカディを紹介した研究者です。名前だけしか知らなかったこの先達に国際シンポジウムの入口でばったり出会い、ディグビーでの宿もそう離れていなかったせいもあって、いろいろ話をすることができました。翌日、私はニューブランズウィック州のモンクトン大学へ行くことになっており、太田さんはなお精力的にあちこちを回ったあと、ハリファックスでのアカディアン女性会議に参加するとのことでした。ただ、その会議で『エヴァンジェリン』の一節を日本語で朗読することになっているのに、邦訳の文庫本がカナダの滞在先に届いていなかったとのことで、文学をやっている者の方が翻訳はうまいだろうから、適当な箇所を訳してくれというのです。となったら、私も文学者のはしくれ、夜明け前に起きて、饐えたにおいのする安モーテルの一室で、エヴァンジェリンヌが貧しい病人を徹夜で看病したあと、疲れ果ててフィラデルフィアの裏道を帰ってくる一節を訳しあげました。英語を通して現れてくるエヴァンジェリンの姿は心なしかフランス語版のエヴァンジェリンヌよりも清楚で禁欲的に思えました。第II部「歴史」でも触れますが、十八世紀の初めから今日までアカディアンたちは生き抜くために絶えず英語も用いざるを得なかったと思われます。従って、文献を渉猟するため、あるいは彼らの心情を理解するために研究者もまたバイリンガルであることが求められるでしょう。私はこの機会にエヴァンジェリンヌ像でさえ、観る角度によって、つまり、描かれた言語によって印象が異なるということに気づかされたと言えます。訳した一節は、翌朝、長距離バスに乗る前の太田さんに渡すことができ、彼女はハリファックスで無事にそれを朗読したそうです。
そんなこともあって、多分私には樹々の滴がエヴァンジェリンヌの涙と重なり合い、自分でこの詩を全部訳してみようという気になったのだと思います。
ちなみに、私は気象学者ではありませんが、この樹々の滴は夏でも頻繁に深い霧がたちこめるこの地方の風土と無関係ではないでしょう。サン・タンヌ大学を最初に訪れようとした日に道に迷い、道を尋ねた農家の人が、偶々アカディアンだったのでしょう、フランス語でサント・マリー教会の隣だと教えてくれたのに、この北米最大の木造建築といわれる教会のすぐ前を通っても気がつかなかったほどに霧が深かったのです。それほどの湿気が朝の冷気で冷やされ、木の葉の上でエヴァンジェリンヌの涙に変わるのではないでしょうか。
第I部でお読みいただくのは、十八世紀の中頃、カナダの南東部の沿岸地方がアカディと呼ばれていたころの話です。その桃源郷で生まれ育った若く美しい娘がなぜ北米大陸を生涯さまよわねばならなかったのか、そのいきさつを十九世紀アメリカの詩人ロングフェローが語ります。
英米文学の関係者には少し申し訳ないのですが、ヒロインの名は「エヴァンジェリン」ではなく、フランス語の表記「エヴァンジェリンヌ」にさせてもらいました。その他の人名、固有名詞についてもルイジアナを除き、原則的にフランス語読みの表記を用いました。ロングフェローの思い描いたアカディでは人々はきっとフランス語を話していたに違いありませんから……
第II部では、そのような悲劇的な状況に投げ込まれたアカディアンたちがどのようにしてそこから這い上がり、どのような苦難を乗り越えて自分たちの言語や文化を守り抜いてきたかということを、主にニューブランズウィック州を対象にして見ていただくことにします。