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異貌の日本近代思想 1

近代主義/反近代主義の二者択一的思考停止をこえる創造的近代

右翼/左翼、保守/進歩の図式ではつかめない日本近代化問題の核心。模倣的近代でも反動的保守でもない創造的近代の思想が現在の闇を照らす。西田幾多郎/三木清/岸田劉生/高村光太郎/野上豊一郎/山田孝雄/九鬼周造/田辺元

異貌の日本近代思想 2

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著者 西田幾多郎・三木清・岸田劉生・高村光太郎・野上豊一郎・山田孝雄・九鬼周造・田辺元
書名 異貌の日本近代思想 1
体裁・価格 四六判並製 320p 定価2970円(本体2700円+税10%)
刊行 2015年8月
ISBN 978-4-906917-44-0 C0000

●目 次

西田幾多郎……新しいロジックを求めて/ヒューマニズムの行き詰まりから新しい人間へ/歴史的生命の世界

三木 清……東亜協同体と近代的世界主義/東洋文化と西洋文化

岸田劉生……近代の誘惑を卒業した誇りと孤独/今日の悪趣味的時代に処する道/東洋の「卑近美」

高村光太郎……美と生命/日本美の源泉

野上豊一郎……能の物狂い/能の写実主義と様式化

山田孝雄……「は」と係助詞/西洋化日本における文法学の困難/日本の文字の歴史学/日本の敬語と文法

九鬼周造……偶然と運命/偶然と運命

田辺 元……常識・科学・哲学――東洋思想と西洋思想との実践的媒介


●著者紹介



西田幾多郎(にしだ・きたろう)。一八七〇年生、一九四五年歿。四高中退。東京帝国大学哲学科選科修了。四高講師などを経て京都帝大に就職、一九一三年に教授となった。和辻哲郎、田辺元を京大に招聘し、また三木清ら学生を育成し、日本人哲学者集団の中心的存在として活躍した。コンスタントに論文を書き連ね、数が或る程度まとまるごとに『哲学論文集第一〜第七』などとして刊行し、死に至るまでの間つねに、主体と客体の分離を前提とした論理をこえる新しい論理を追求した。「私の論理について」と題された書きかけの絶筆には次の言葉がある。「私は多年の研究の結果、我々の歴史的行為的自己の立場からの思惟の形、即ち歴史的形成作用の論理を明らかにし得たと信ずる。従来の論理はすべて抽象的な意識的自己の立場からの論理であった。私は私の論理によって種々なる自然科学の根本的問題及び道徳宗教の根本的問題をも考えて見た。而して従来の論理の型によって考えられなかった問題が考えられると思う、少なくともその解明への道が与えられると考える。」



三木清(みき・きよし)。一八九七年生、一九四五年歿。第一高校在学中に西田幾多郎の『善の研究』に接し、西田のいる京都帝国大学哲学科へ進学。京大在学中は波多野精一、田辺元の指導をも受け、大学院に進んで歴史哲学の研究を深めた。ドイツに留学(リッケルト、ハイデガーに師事)、フランス留学を経て法政大学哲学科主任教授となった。岩波書店の企画・編集に参画し当代の言論界をリードした。一九四五年、警視庁に検挙され、拘置所で獄死。著作に『パスカルに於ける人間の研究』『歴史哲学』『哲学入門』『構想力の論理』などがある。



岸田劉生(きしだ・りゅうせい)。一八九一年生、一九二九年歿。岸田吟香の四男。東京高等師範学校附属中学校を三年で中途退学し絵画の独学を始めた。白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事。二十歳のころに柳宗悦や武者小路実篤ら白樺同人およびバーナード・リーチとの交際を始めた。高村光太郎らとヒュウザン会(のちフュウザン会)を結成。のち草土社に参加。当初ポスト印象派の影響を受けた作風であったが写実的な作風へと移り、さらにその後、初期肉筆浮世絵や宋元画に傾倒した作風に転じ、日本画も手掛けた。著名な洋画作品に、一連の「麗子像」、「切通之写生(道路と土手と塀)」などがある。著作には『初期肉筆浮世絵』『図画教育論』『演劇美論』などがあり、近代日本の画家としては異例の著述家でもある。全集版全十巻。



高村光太郎(たかむら・こうたろう)。一八八三年生、一九五六年歿。詩人・彫刻家。東京美術学校彫刻科(木彫)卒業。のち渡米を決意し、洋画科に再入学。一九〇六年から一九〇九年にかけて、ニューヨーク、ロンドン、パリに滞在し、イタリア旅行を経て帰国。岸田劉生らとヒユウザン会を結成。一九四五年の空襲で東京本郷のアトリエが焼け、岩手に移り農耕自炊の生活を始めた(一九五二年帰京)。代表的彫刻作品に「手」、「乙女の像」などがあり、著作には『道程』『智恵子抄』などの著名な詩集のほかに美術評論『印象主義の思想と芸術』『美について』や随筆『独居自炊』『山の四季』などがある。



野上豊一郎(のがみ・とよいちろう)。一八八三年生、一九五〇年歿。東京帝国大学文学部英文学科卒業。夏目漱石門下生。野上弥生子の夫。イギリス・ギリシャ劇の研究から能の研究へ進んだ。能や世阿弥の海外への紹介にも尽力し、一九三八年には日英交換教授として外務省から派遣され、ケンブリッジ大学などで世阿弥を講義し、自ら監修した能の初のトーキー「葵上」を紹介して反響を呼んだ。一九四七年に法政大学総長となり、文学部内に能楽研究室を設置。著作に『能――研究と発見』『能の再生』『能の幽玄と花』の三部作、『能の話』(岩波新書)『能二百四十番』『世阿弥元清』『観阿弥清次』『能面』『能面論考』『花伝書研究』などがあり、翻訳書にロチ原著『お菊さん』(岩波文庫)などがある。



山田孝雄(やまだ・よしお)。一八七五年生、一九五八年歿。国語・国文学者。富山県尋常中学校中退後、教員の検定試験に合格。小学校、中学校の教員を務めたのち、文部省国語調査委員会補助委員、日本大学講師、東北大学講師を経て東北大学教授、神宮皇学館大学学長、貴族院勅選議員を歴任。一九四六年、公職追放(一九五一年解除)。「山田文法」として著名な文法学にとどまらず、広く国語学と国文学に関する膨大な著作を遺し、『日本文法論』(約一五〇〇頁)、『日本文法学概論』(約一二〇〇頁)、『万葉集講義(三巻)』など、全著作は二万余頁にのぼる。



九鬼周造(くき・しゅうぞう)。一八八八年生、一九四一年歿。男爵九鬼隆一の子。母波津は岡倉天心との親交のため離縁された。東京帝国大学哲学科、同大学院を経てドイツ、フランス留学。リッケルト、フッサール、ハイデガーに学び、ベルクソン、サルトルに交わった。帰国して京都帝国大学講師就任。のち助教授、教授。日本へのハイデガー実存哲学紹介の先駆者となった。文学的センスを生かし、日本の伝統文化、詩的言語についての優れた考察を遺した。著作に『「いき」の構造』のほか、主著『偶然性の問題』などがある。



田辺元(たなべ・はじめ)。一八八五年生、一九六二年歿。東京帝国大学理科に入学後、文科哲学科に転科。京都帝国大学教授。西田幾多郎に次ぐ「京都学派」の哲学者。科学哲学、数理哲学から出発し、観念弁証法と唯物弁証法をともにこえるための独自の絶対弁証法を提唱し、西田幾多郎の「西田哲学」に対して「田辺哲学」と称され、或る時期から西田幾多郎の哲学を強く批判するようになった。「媒介」をキーワードとして、哲学の立場から科学や宗教など多領域の相互関係を考察。著作に『数理哲学研究』『数理の歴史主義展開』『懺悔道としての哲学』『哲学入門(全四巻)』『ヴァレリイの芸術哲学』などがある。