犬養毅の世界 「官」のアジア共同論者 アジア共同の理念に動く―― 「野」には滔天、頭山満、「官」には犬養毅あり 「憲政の神様」と賞賛され、5.15事件の「話せばわかる」伝説の最期で知られる、飄々毒舌、直球型の首相。 山県有朋が「自分のもとを訪れないのは頭山満と犬養毅だけだ」とこぼしたとの話も残る独立志向。 東洋趣味に根ざす政治思想から東アジア再興の経綸を抱き、孫文、ボースらを保護、日中親善に努力した近代日本異色の政治家。その横顔・論点・思想を示す、稀少な「犬養読本」。 |
著者 犬養毅・鵜崎熊吉
書名 犬養毅の世界 「官」のアジア共同論者
体裁・価格 A5判上製 272p 定価3850円(本体3500円+税10%)
刊行日 2007年1月30日
ISBN 978-4-902854-24-4 C0095
著者紹介
犬養毅 (いぬかい・つよし(つよき))
号は木堂。1855(安政2)年生、1932(昭和7)年歿。政党政治家。備中(岡山)生まれ。
慶応義塾中退。『報知新聞』の記者として西南戦争に従軍。『東海経済新報』創刊後、統計院権少書記官となるが、1881(明治14)年の政変で大隈と共に下野。1882(明治15)年、立憲改進党結成に参加、自由民権運動、大同団結運動を推進。1890(明治23)年、第1回衆議院選挙に当選(以後、補欠選挙1回含め連続当選19回、議員在職42年に及んだ)。
初期議会では民党の闘将として勇名をはせ、1896(明治29)年、立憲改進党を解き進歩党を結成。松隈内閣の成立に際し大隈重信の参謀として画策。1898(明治31)年、自由党と合同しての憲政党成立後、第1次大隈内閣文相。憲政党分裂後(憲政党と憲政本党に分裂)は憲政本党の中心的指導者となり、非立憲政友会(憲政党が改組し立憲政友会となる)、藩閥打倒を標榜して野党の立場を堅持。1909(明治42)年、財政と軍備の調和を骨子とする経済的軍備論を提唱。1910(明治43)年、立憲国民党を結成。1912(大正1)年、陸軍の2個師団増設要求に反対し尾崎行雄とともに第1次憲政擁護運動の先頭に立ち「憲政の神様」と併称された。この間、金玉均や中国革命派の孫文、黄興ら、アジア各国の亡命者を保護・援助。辛亥革命時の1911(明治44)年には、招かれて頭山満らと中国に渡る。
1917(大正6)年、外交調査会委員。1920(大正9)年、普選運動の陣頭に立ち普選案提出。翌年、産業立国論を提唱。1922(大正11)年、立憲国民党を革新倶楽部に改組して事実上の党首となり、議会内最左派の立場で活躍。1923(大正12)年、第2次山本内閣逓信相兼文相。1924(大正13)年、第2次憲政擁護運動を指導し、第1次加藤高明内閣逓信相。1925(大正14)年、革新倶楽部・立憲政友会合同後、政界引退を表明したが、支持者の懇請に余儀なくされ復帰。1929(昭和4)年、孫文移霊祭に国賓の礼をもって頭山満らと招かれ中国に渡る。同年、立憲政友会総裁就任。翌年、浜口内閣のロンドン海軍軍縮条約の調印に反対。1931(昭和6)年、首相就任、内閣を組織。満州事変後の政局に対処したが、5.15事件で軍人に殺害される。この事件をもって戦前の政党政治は崩壊したと目されている。
鵜崎熊吉 (うざき・くまきち)
号は鷺城。1873(明治6)年生、1934(昭和9)年歿。新聞記者、評論家。兵庫県生まれ。東京専門学校(早稲田大学前身)卒業。『東京日日新聞』『毎日電報』『大阪毎日新聞』などの記者として活躍。また『日本及日本人』『中央公論』などで軍閥・財閥批判を展開。1910(明治43)年、立憲国民党に参加、党勢拡張に努力した。主著『犬養毅伝』。
目 次
横顔と論点 (鵜崎熊吉著『犬養毅伝』起結・別篇)
横顔を描く
終 焉
支那関係
演説と座談
趣味の人
家 庭
年 譜
思想を語る (犬養毅講述『木堂談叢』)
序
道徳の修養
順境と逆境
利害標準と道義標準
西郷南洲
乃木将軍の死
青年の世に出る発足点
青年の神経過敏
共同生活の修練
思想問題
労働問題
婦人問題
宗教と国家
天海僧正と道衍和尚
支那の将来
雄 弁
徂 徠
名人秀栄
人物と遭遇
偽書と仮設の人物
いわゆる趣味
文字、文章
字と雅号
漢学保存の方法
産業立国主義
行政整理
政界革新
改進党の成立とその人物
福沢先生と拝金宗
吾の回顧