出版巨人創業物語 佐藤義亮・野間清治・岩波茂雄 著 (著者名創業順) 文の雄(新潮社・佐藤義亮) 談の雄(講談社・野間清治) 学の雄(岩波書店・岩波茂雄) 大物たちの無謀な事始めの自伝集――現代出版界の原点確認。 三者三様、各分野で一家をなした三人の、これまで一般の目に触れること少なかった貴重で面白い体験談を収録。 出版業界の「素人」、そして若輩こそがなしえた偉業の原点とは? 百年の歴史を経て今なお堂々たる大版元の業界三大個性が、その「始まり」において共有するものとは? ハウツー編集・出版論ではない、時代をつらぬく根元の話。 |
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著者 佐藤義亮 野間清治 岩波茂雄
書名 出版巨人創業物語
体裁・価格 四六判上製 384p 定価3080円(本体2800円+税10%)
刊行日 2005年12月20日
ISBN 4-902854-11-2 C0095
著者紹介
生年および五十音順 (写真の左から/佐藤義亮・野間清治・岩波茂雄)
佐藤義亮 (さとう・ぎりょう) 1896年創業
1878(明治11)年(2.18)生まれ、1951(昭和26)年(8.18)歿。初名儀助、筆名、橘香、妖堂、等。新潮社創業者。秋田県生まれ。秋田の責善学舎を経て上京、秀英舎(大日本印刷前身)勤務(運転係を経て校正係)。1896(明治29)年、新声社創業、文芸雑誌『新声』を創刊し「アカツキ叢書」など書籍も手がける。新声社を手放し、1904(明治37)年、新潮社創業、『新潮』を創刊。1914(大正3)年、“出版界初の廉価本(20銭)”「新潮文庫」創刊。文芸以外の仕事に、高畠素之による本邦初の完訳版『資本論』(1925-26年)など。1927(昭和2)年発刊の『世界文学全集』が大成功を収める。1932(昭和7)年、大衆雑誌『日の出』創刊。文芸出版の雄と称された。著書に『生きる力』『明るい生活』『向上の道』(いずれも新潮社)がある。
野間清治 (のま・せいじ) 1909年創業
1878(明治11)年(12.17)生まれ、1938(昭和13)年(10.16)歿。講談社創業者。群馬県生まれ。群馬県立師範学校卒業、県内の小学校教諭、東京帝国大学中等教員臨時養成所卒業、沖縄県立中学教諭、同県県視学を経て東京帝国大学法科大学首席書記となり、学内の緑会弁論部設立を機に弁論雑誌創刊を志す。1909(明治42)年、大日本雄弁会創業、翌年、雑誌『雄弁』創刊。1911(明治44)年、大日本雄弁会に加え、講談社も創業、『講談倶楽部』創刊。追って『少年倶楽部』『婦人倶楽部』『キング』などの雑誌を次々に創刊。書籍部門では『大正大震災大火災』がベストセラーに。「雑誌王」と呼ばれ、「私設文部省」の称も。1930(昭和5)年より約10年、報知新聞社長兼務。著書に『私の半生』(千倉書房・講談社)『体験を語る』『処世の道』『出世の礎』『修養雑話』『世間雑話』『栄えゆく道』『野間清治短話集』など(いずれも大日本雄弁会講談社)がある。
岩波茂雄 (いわなみ・しげお) 1913年創業
1881(明治14)年(8.27)生まれ、1946(昭和21)年(4.25)歿。岩波書店創業者。長野県生まれ。第一高等学校(除籍)を経て、東京帝国大学哲学科選科卒業。神田高等女学校(教頭)、東京女子体操音楽学校(講師)勤務を経て、1913(大正2)年、岩波書店創業(古書・新刊小売)。翌年、夏目漱石『こゝろ』を皮切りに出版業に移行。1915(大正4)年、「哲学叢書」「科学叢書」刊行。1916(大正5)年前後より自社刊行物の定価販売励行。1927(昭和2)年、「岩波文庫」、1928(昭和3)年、「岩波講座」、1933(昭和8)年、「岩波全書」、1938(昭和13)年、「岩波新書」創刊。1939(昭和14)年、買切制実施。文化の「一配達夫」を自称し、学術的価値を重んじた同社の活動は長く「岩波文化」の名で讃えられてきた。1945(昭和20)年、東京都多額納税者議員補欠選挙で貴族院議員に当選。1946(昭和21)年、『世界』創刊、同年、出版人初の文化勲章受章。七周忌に際し『茂雄遺文抄』(岩波書店・非売品)が出版された。
◆本書の本文から◆
▼野間清治
人がやっていることだから、やろうと思えば、自分にだって出来ぬこともあるまい位の考えでしかなかった。「野間君、本当にそんな雑誌を出すつもりかね」などときかれた。「ええ、出しますよ、一旦出すといったからには必ず出しますよ」「金がかかるだろう!」「それは多少かかりましょうね、どれ位かかるものでしょうかね」といった調子なので、私の余りにぼんやりした挨拶には、誰も驚いていたらしい。その頃の私は二百円、三百円の金だって容易でない状態である。それはまた他の人々もよく知っていることである。一体、どうして野間は金を作るつもりだろうか、それに一向世間も知らず、雑誌発行の経験など全くない様子だしと……、みんな危ぶんだ。
▼佐藤義亮
校正係り(印刷所の)をやったお蔭で、出版、印刷のことが分って来ると、この機会に一つ雑誌を出して見ようと決心したのである。そんな大それた事を考えだしてどうするのか、と友だちから再三忠告を受けたが、そこは少年の一本気なり、田舎ものの向う見ずの勇気なりで、思いかえす気持はみじんもなく、薄給の中からなにがしずつを貯金したりして、いろいろ準備を進めていると、宿の主婦の萩原お雪さんというが、若いに似あわず侠気のある人で、私の苦心が見て居れないと言って、幾分の援助をしてくれることになった。それでとうとう『新声』第一号は産れ出たのである。
▼岩波茂雄
正直では商売ができない。これは昔の人の一種の迷信で、私は不可能ではないと信じ、あくまでも真面目にやって見たいと思う。万一誠実をもって立つことが出来なかったら、いつでも潔くこの境涯を放擲するだけの決心はある。正義をもって立てない境涯には私はいささかの未練もない。私は初め商人となろうとした時、利害という観念にはなはだ乏しいところから、とてもやって行けぬと考えたものが多く、必ず損をし失敗すると断定を下した人もあった。私自身にしても、実世間を知らぬだけに多少の不安がないでもなかった。
▼野間清治
当時、書店に配られた雑誌の売れ残りは、三ヵ月以内に発行元ヘ返すことになっていたが、新雑誌、つまり創刊号だけは、もっと多くの余裕が与えられていた。或は六ヵ月、或は八ヵ月、事実は、いつ迄もいつ迄もだらだら返ってくるのであった。『講談倶楽部』も二、三ヵ月すると、そろそろその返品がはじまって来た。けれどもだらだら返って来るので、何月号がどれくらい売れたのか、どれくらい返って来るのか一向分らない、「随分返品が来出したなア」「もっと売れた筈だがなア」毎日毎日返品が積み重なって行くに従って、社内はいよいよ憂鬱になって行った。
実のところ、私自身も気が気でなかったが、強いて元気な顔をして、将来を語り、成功の暁を説いて、一家を明るくすることに努力した。コロンブスのアメリカ発見談などもして、一同を鼓舞激励したものであります。そのうちに、だんだん返品雑誌の置き場所に困って来たので、隣りの内田さんに頼んで、四尺に二間程の物置を造ってもらい、それを返品の庫にした。ところが、それが忽(たちま)ち一杯になってしまった。それでもまだ返品が来る。今度は床の間に積み始めた。部屋の端の方にも積み始めた。とうとう根太(ねだ・床板を受ける横木)が抜けるという騒ぎである。
この累々たる返品、而(しか)して尚いつまで続くか分らぬ返品の大洪水が、あとからあとから押し寄せて来る。そして、どの部屋もどの部屋も、その洪水に溺れんばかりの有様になって行く。返品の山が光線を遮って、家を暗くし人の心を暗くして行く。同時に、借財の方も、返品と同様に、どんどん積って行く。さなきだに(そうでなくてさえ)、金に困っている際にこの有様、少し小心に、神経質に考えるならば、既にこの状態は致命的のものであった筈である。それを「大きな心を持て」とか「無理にも笑え」とか「笑で悲観を吹き飛ばせ」とか「よい修養問題だ」とか言っては、無理にも自分の心を励ましていた。
◆著者たちの自任するところ◆
▼岩波茂雄
小生は一冊の雑誌、一冊の図書を出版するにも未だかつて学術のため、社会のためを思わざる事なく、『吉田松陰全集』を出す心持ちとマルクスの『資本論』を出すこととにおいて、出版者としての小生の態度においては一貫せる操守のもとに出ずる事に御座候。諸種の学説あり、諸種の思想あり、これを検討論議してこそ、学術も社会も進歩することと存じ候、故に一の主義を奉ずるものも他の反対の主義を持つものに対して尊敬を以て接し、堂々公明なる心持を以て論議すべきものと存じ候。(「原理日本」蓑田胸喜宛書簡より)
▼野間清治
この新講談は、前にも申した通り、その後いよいよ隆盛となり、大衆文学とか、大衆小説とかいう名称なども起ってまいり、今日に及んでおります。もっともその以前にも、大衆小説と称すべきものもあるにはあったが、その画期的勃興の動機を作ったのはこの時ではありますまいか。今日においては、最高級の小説家も文芸家も、学者も教育家も、大衆向の書きぶりをいとうどころか、むしろかえって、小説でも、伝記でも、戯曲でも、あるいは科学、哲学に関する著述に到るまで、なるべく大衆的に、なるべく分りやすくということを考える人が、だんだん多くなって来ているように見受けられるのであります。(……)この大衆風の文学の勃興こそは、実に、読書というものを民衆化させ、読書を教育ある少数の人達から、さまで教育なき大衆にまで普及せしめたものである。すなわち、我々の有する、「仮名(かな)」の力を利用して、最早わが国には、大衆向に書かれた書籍を読み得ない者は一人もいない、というところにまで、導くことが出来たのであります。(本書より)
▼佐藤義亮
私は、だいぶ文学的の素質があるかのように先刻来いろいろお話がございましたが、元来田舎を出る時は、何とかしてひとかどの文学者になりたい、立派な作品を書いてみたいという考えで一杯だったのでありますが、十九歳の夏に雑誌を出しまして、たぶん二十一歳の秋と思います、仔細に自分を検討してみて、自分は文学者たるべき天分は稀薄であるし、とうてい立派なものなど書ける力はないということがハッキリわかったのであります。芸術的天分なくして文学者になるということは間違いでありますから、自分は文学的の仕事をしよう、すなわち筆を執ることはやめるが、そのかわり文学のために貢献のできる仕事をしようという考えから、出版にかかったのであります。(新潮社創立四十周年記念祝賀会挨拶より)
◆収録文紹介(底本)◆
▼佐藤義亮
佐藤義亮著「出版おもいで話」を収録。底本には『新潮社四十年』(昭和11年、新潮社、非売品)を使用した。同書には写真も収録されており、いくつか見繕って掲載した。(本選集11-97p)
▼野間清治
野間清治著『私の半生』より創業期前後の部分を抄録。『私の半生』は昭和11年、著者満58歳、死の2年前の年に千倉書房より出版され、その後、「永久版を作るのだといって著者が初版に朱筆を入れたもの」が、著者歿後の昭和14年に増補訂正版として大日本雄弁会講談社より出版された。さらに後、元本の総ルビを省き新漢字・新仮名遣いにあらためた版が、昭和34年、講談社より復刊された。本選集の底本には昭和34年の講談社版を使用した。(本選集99-324p)
▼岩波茂雄
岩波茂雄著「教師より本屋に」「回顧三十年」「回顧三十年感謝晩餐会の挨拶」「(全国の書籍雑誌小売業者諸君)」を収録。「教師より本屋に」の底本には『出版人の遺文 岩波書店 岩波茂雄』(昭和43年、栗田書店、非売品)を、「回顧三十年」「回顧三十年感謝晩餐会の挨拶」「(全国の書籍雑誌小売業者諸君)」の底本には『茂雄遺文抄』(昭和27年、岩波書店、非売品)を使用した。収録の後二者は前二者と話題の重複が多いので、活字のサイズを下げて収録した。(本選集325-378p)