Shoshi Shinsui




狩野亨吉著

安藤昌益

安藤昌益/歴史の概念/科学的方法に拠る書画の鑑定と登録

安藤昌益の発掘者が遺した不朽の古典的名エッセー「安藤昌益」

「昌益に関心をもったら先ずこれを」という基本文献とされながら、手に入れにくかった「安藤昌益」ほか。一冊の著書も遺さずして、称賛され続ける百科全書的碩学の珠玉エッセー小選集。

のちに関東大震災で焼失してしまう『自然真営道』原稿本全百巻を発掘・所持・精読した碩学狩野だけが書きえた、簡潔で深みある昌益思想への永遠のイントロダクション。

「官」を厭い、一高校長〜京大学長の一流コースに43歳で断然訣別した奇人。物理学的実証精神により歴史・哲学・宗教・心理・芸術・政治を貫く稀代の思想。――争いを用いずに不正を抑えるコツとは何か?


   



品切 ※返品発生時出荷中 ※「安藤昌益」はこちらの本に収録されています。→ 『異貌の日本近代思想2』


著者 狩野亨吉
書名 安藤昌益 (安藤昌益/歴史の概念/科学的方法に拠る書画の鑑定と登録)
体裁・価格 四六判上製 128p 定価1650円(本体1500円+税10%)
刊行日 2005年11月30日
ISBN 4-902854-10-4 C0010


内容紹介

「安藤昌益」 7-53頁

初めて世に昌益を紹介した論考。短篇ながら今なお基本中の基本文献とされ続ける名篇。『自然真営道』全体を俯瞰し、昌益の人物、キーワード「自然」「互性活真」を論じる。他ならぬ狩野をして昌益を発見せしめた必然性と、狩野思想の個性が行間に滲む。

「歴史の概念」 57-75頁

狩野最晩年の思想。一切の事実の集合体「事実網」すなわち宇宙が、常に自ら変化する事において「宇宙は歴史である」。この壮大な観念によりながら哲学的飛躍をなすことなく、科学的に事実を記録することの困難と可能性。物理学的合理主義と歴史学の綜合。

「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」 79-118頁

書画鑑定業を営む中で研磨した「アイデンティティをめぐる判断論」。全ての判断・学問の根本にある「同一性」の認識。「私は鑑定の問題を以て論理学・数学の根本原理と見なさるる同一法、すなわち純理の牙城に攻め入ろうとしているのである。一方また、登録の問題を以て物理学の理想と見なすべき構造方程式、すなわち救世主の事業を窺うとしているのである」。狩野思想の現場。

著者紹介 狩野亨吉 (かのう・こうきち)



若い頃に日本思想史の探究を志し、並々ならぬ熱意をもって古書を蒐集。哲学や宗教に限らず科学や芸術等々を含むその探究によって、安藤昌益だけでなく本多利明、志筑忠雄ら、近世日本の科学者を発掘。その学識を讃えられながら、生涯一冊の著書も出版しなかった、自然科学的合理主義による百科全書的な思想家。一高校長を経て京大学長となるも、自己が官吏として生きることと学者として生きることが両立しないと考え、四十三歳で京大学長を辞任。以後はつましく暮らしながら探究を続け、書画鑑定業を営む中で「アイデンティティ」に関する科学的認識論としての「鑑定理論」を研磨した。略歴は以下の通り。

1865年、秋田に生まれる。父親の内務省出仕に伴い一家東京に移住。1879年、東京大学予備門入学。1884年、東京大学理学部入学(数学専攻)。1889年、東京帝国大学文科大学入学(哲学専攻)。1891年、同大学院入学。1892年、第四高等中学校教授。1898年、漱石らの招きで第五高等学校教授。同年、第一高等学校校長となり、在任中、岩波茂雄をはじめ後に岩波文化人となる学生たちと交わる。1906年、京都帝国大学文科大学教授、初代文科大学長。1908年、同職辞任。1913年、皇太子教育係職の斡旋を再三受けるが思想上の不適任を主張し固辞。1914年、東北帝国大学総長への推薦を辞退。以後、五十代半ばで文書・図書・書画鑑定等の「明鑑社」を開業し生計を立てる。1942年、満77歳5ヶ月の生涯を終える。

著者略年譜・読書案内

◆略年譜

1865(慶應1)年(0歳)。……7月28日、出羽国秋田郡大館町に生まれる。父良知は儒学者(1874年内務省出仕)。

1876(明治9)年(11歳)。……一家で東京麹町区に移住する。

1877(明治10)年(12歳)。……母死去。

1878(明治11)年(13歳)。……番町小学校を卒業し、東京府第一番中学校変則科に入学(変則科は一切を英語で行なう)。

1879(明治12)年(14歳)。……東京大学予備門に入学。この頃、東京帝国大学動物学教師のモース(Edward Silvester Morse)の進化論講演を聴き影響を受ける。

1884(明治17)年(19歳)。……東京大学予備門を卒業し、東京大学理学部(後に理科大学と改称)に入学。

1888(明治21)年(23歳)。……東京帝国大学理科大学を卒業(数学科)。暁星中学フランス語専修科に入学。東洋商業学校講師となり物理学講座担当。

1889(明治22)年(24歳)。……東京帝国大学文科大学に入学(哲学科2年に編入)。

1891(明治24)年(26歳)。……同卒業、同大学院に入学(「数学のメソドロジー」研究)。

1892(明治25)年(27歳)。……第四高等中学校教授となり本部教長勤務(金沢在住)。

1894(明治27)年(29歳)。……自己便宜の願いにより同職を退く。真因は校長の処置に不満のためと言われている。以後しばらく自由に学究生活、その間「数論派哲学大意」(1894年)「志筑忠雄の星気説」(1895年)執筆発表。

1898(明治31)年(33歳)。……夏目漱石らの招きで第五高等学校教授となる。教頭勤務(熊本在住)。同年、第一高等学校校長となる。在任中、岩波茂雄をはじめ後に岩波文化人となる学生たちと交わる。

1899(明治32)年(34歳)。……この頃、安藤昌益『自然真営道』原稿本入手(100巻92冊のうち「生死之巻」2冊欠本)。

1906(明治39)年(41歳)。……京都帝国大学文科大学教授(倫理学講座担任)、初代文科大学長となる。在任中には内藤湖南をはじめ民間にあった優秀な学者を教授に迎える。この年、父死去。

1907(明治40)年(42歳)。……関孝和200年忌に際して用意した「記憶すべき関流の数学家」の原稿を代読発表(病気のため)、本多利明を世に紹介。

1908(明治41)年(43歳)。……病気を理由として京大学長・教授を辞任し、翌年東京に転居。辞任の真因は、内藤湖南を教授に迎える件をいったん認めた文部官僚が、学歴を理由に内藤の就任を渋った件など、大学運営にまつわる曲事にあったと言われている。退職は恩給期限の3ヶ月前(狩野は恩給不可論者であったと言われている)。この年、『内外教育評論』に某博士の談として“大思想家あり”の題で安藤昌益を紹介。

1912(大正1)年(47歳)。……東北帝国大学図書館への「狩野文庫」納本始まる。以後何度かに分けての納本は総計10万8千冊に及び、哲学をはじめ美術、兵学などあらゆる分野にわたる“古典の百科、江戸学の宝庫”として世界的にも知られ、今も東北大学附属図書館において活用されている。

1913(大正2)年(48歳)。……皇太子(後の昭和天皇)教育係職の斡旋を再三受けるが、思想上の不適任を主張し固辞。

1914(大正3)年(49歳)。……東北帝国大学総長への推薦があるが辞退。明治18年以来蒐集の西洋楽譜全部を東京音楽学校に寄付。

1918(大正7)年(53歳)。……自ら中心となった匿名組合により東京鋼鉄製作所を創設するが、ほどなく第一次世界大戦終了に伴う欧米貿易の再活性化により不況。

1919(大正8)年(54歳)。……この頃、文書・図書・書画鑑定等の「明鑑社」開業と言われている。

1923(大正12)年(58歳)。……『自然真営道』原稿本が東京帝国大学に買い上げられるが、関東大震災で大部分焼失。

1924(大正13)年(59歳)。……東京鋼鉄製作所を運営していた匿名組合解散、巨額債務の全てを一人で背負い、生涯苦労する。この頃、安藤昌益『統道真伝』写本5冊購入。

1928(昭和3)年(63歳)。……岩波講座『世界思潮』(3)に「安藤昌益」を発表(『自然真営道』原稿本入手からおよそ30年)。

1930(昭和5)年(65歳)。……学士会茶話会にて「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」講演。この年、電話を処分。

1931(昭和6)年(66歳)。……共編著『書画落款印譜大全』を翌年に掛けて刊行(2分冊、序文及び論文「書画の鑑定特に落款印章の効用に就いて」所収)。

1932(昭和7)年(67歳)。……刊本『自然真営道』3巻購入。

1933(昭和8)年(68歳)。……修善寺の漱石詩碑碑文を書く(のち『漱石全集』月報に収録)。明鑑社より「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」出版。

1936(昭和11)年(71歳)。……「天津教古文書の批判」を『思想』に発表。当時、軍人間に比較的多くの信者をもっていた天津教について、「今にして其浸漸を防止せざれば、早晩健全なる思想との衝突を惹起し、其結果社会に迷惑を及ぼすことあろうと思われる。是れ或は杞憂に過ぎないとするも、予め天津教の真価を知り、事に当って迷わざるを期すべきであろう」との考えから、科学的鑑定と史料批判の手続きによって「神代文字」と称されるものの無稽と、当の「古文書」が偽作であることを明かす。古文書の信憑性について「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」における理論が実践され、その周到さに評価の高い論文。

1940(昭和15)年(75歳)。……河合栄治郎編『学生と歴史』に「歴史の概念」を寄稿。

1942(昭和17)年(77歳)。……胃潰瘍を患い、12月22日、逝去。東大医学部で脳髄標本摘出。



 なお、生涯を独身で過ごし、50代半ばからは姉との二人暮しであった狩野については、その性生活にも少なからぬ関心が寄せられてきた。

 岩波書店員時代、狩野亨吉のもとに出入りしていた小林勇の著作「隠者の焔〈小説狩野亨吉〉」(『隠者の焔』所収)には、作中の主人公二人が狩野の遺品整理をしているうちに、狩野の手になる多量の性的創作画文を発見し、取り扱いに困惑するさまが物語られている。

 また、青江舜二郎著『狩野亨吉の生涯』(一九七四年刊の明治書院版)には「亨吉と性」の一篇(29頁分)が「付」の一つとして収められ、著者が目にしえた限りでの日記(東大教養学部保管の狩野遺品に含まれる分)中の記録の紹介や関連事情への論評が記されている。(新版の中公文庫ではその一篇は「割愛」)。

 この点について、安倍能成編『狩野亨吉遺文集』の「年譜附記」には以下の記述がある。――「先生が終生独身生活を遂げられたのは、周知の事実であつて、その為に先生を崇敬する者もあるが、この故を以て先生を性欲を超越した枯木寒巌の如き人物と思ふのは、甚しい誤解である。先生は人一倍人間の性欲現象に関心を持ち、先生の倫理学に於いて人間の性欲的エネルギーは重大な位置を占めて居ると聞いて居る。たゞ恐らく先生は性欲的交渉を生きた異性と重ねる煩累を嫌はれたものと想像される。しかしこれはあくまでも私の想像である。」



◆読書案内



狩野亨吉著・安倍能成編『狩野亨吉遺文集』岩波書店(1958年)*入手難

狩野亨吉・岩上方外編『書画落款印譜大全』2分冊、柏書房(1996年)*初版は武侠社(1931-32年)入手難



青江舜二郎著『狩野亨吉の生涯』明治書院(1974年)*入手難

青江舜二郎著『狩野亨吉の生涯』中公文庫(1987年)*入手難(上記初版より「亨吉と性」の一篇削除)

安倍能成著『戦中戦後』所収「狩野亨吉先生を弔ふ」「狩野先生のこと」白日書院(1946年)*入手難

板倉聖宣著『かわりだねの科学者たち』所収「狩野亨吉のこと」仮説社(1987年)

久野収著『30年代の思想家たち』所収「「真理の迂廻戦法」」岩波書店(1975年)*入手難(岩波書店『久野収集』に再録)

小林勇著『遠いあし音』所収「めぐりあわせ――鴎外夫人の死と狩野亨吉博士の死」「編集者の回想録」文藝春秋新社(1955年)*入手難(筑摩書房『小林勇文集1』に前者、『小林勇文集4』に後者、筑摩叢書『遠いあし音・人はさびしき 』に前者、再録)

小林勇著『隠者の焔』所収「隠者の焔〈小説狩野亨吉〉」文藝春秋(1971年)*入手難(筑摩書房『小林勇文集5』に再録)

鈴木正著『狩野亨吉の研究』ミネルヴァ書房(1970年)*入手難

鈴木正著『狩野亨吉の思想』第三文明社(1981年)*入手難

鈴木正著『増補・狩野亨吉の思想』平凡社ライブラリー(2002年)